韓国でインスタントラーメンが生まれて60年が経ったそうです。その韓国ラーメンの成り立ちには日本のとある企業が大きく関わっているのをご存じでしょうか?今回の無料メルマガ『キムチパワー』では韓国在住歴30年を超え教育関係の仕事に従事している日本人著者が、韓日両企業家の韓国ラーメン発売にいたるエピソードを紹介しています。
韓国ラーメン60年、世界で最も美しい契約
9月15日は韓国ラーメンの還暦の日だった。三養工業(現三養食品)の三養(サムヤン)ラーメンの発売日でもある。60年前のこの日にまつわる韓日両企業家のラーメンについて話だ。三養食品創業者の全重潤(ヂョン・ジュンユン)と明星食品の奥井清澄(おくい・きよずみ)がその主人公だ。
東邦生命(現三星生命)副社長を務め、第一生命社長を務めていた全重潤(ヂョン・ジュンユン)は1961年8月、ソウル下月谷洞(ハウォルゴクドン)で創業に乗り出した。目標はラーメン事業。
ある昼休み、南大門(ナムデムン)市場で米軍部隊の残飯で煮たてた「クルクリ粥」(別名・国連湯)を買おうとする長い列を見ながら決心したことだった。直接食べてみると、割れたボタンはもちろん、タバコの吸殻まで出てきた。「同胞に今すぐ必要なのは食事だ。未来を準備する保険(保険会社の社長だった)が何の役に立つのか。安くて満腹になれる食べ物を作ろう」。
1959年に日本出張の時に味わったラーメンを思い出した。しかし創業は難関の連続だった。全重潤は思った。「日本に行って機械と技術を買ってこよう。」
私財をはたいて資金は用意したが、ドルを集める方法がなかった。当代最高の実力者であった金鍾泌(キム・ジョンピル)中央情報部部長を訪ねた。「革命をなぜしたのか。国民が豊かに暮らせるようにしようということではないか。」全重潤が言うと頭の回転の速い金鍾泌はすぐに理解した。実力者金鍾泌の説得に成功し、5万ドルを確保した。
1963年4月、日本行きの飛行機に乗った。日本最高のラーメン会社や他のラーメン会社などを訪ね回ったがすべて断られた。落胆したヂョン・ジュンユンが藁をもつかむ思いで訪れたのが明星食品で、社長が奥井清澄だった。
奥井はヂョン・ジュンユンに「なぜラーメン事業をしようとするのか」と尋ねた。「クルクリ粥(いってみれば残飯粥でゴミのようなもの)を食べる同胞たちがこれ以上お腹が空かないように救いたい」。
奥井は返事もせず翌日また来るように言った。奥井のそばに二人が立っていた。製麺機メーカーの上田社長と揚げ釜メーカーの奥谷社長だった。その場で奥井は「あなたを全面的に助けます。技術料、ロイヤリティは必要ありません。機械代も実費のみいただきます。日本は韓国戦争で立ち上がりました。明星食品が直接その恩恵を受けたわけではありませんが、お返しいたします。明日からこの2人から技術を学びなさい。」
そうして10日間学んだ。しかし、スープの作り方だけは教えてくれなかった。明星の核心競争力だったため、もしかしたら他の業者に流れるのではないかと憂慮したためだ。
帰国の途に奥井社長の秘書が空港に密封した封筒を一つ持ってきた。封筒にはこのように書かれていた。
「小さなプレゼントを用意しました。スープ配合表です。これを知っている人は私以外に会社に何人もいません。日本と同じように韓国でもお腹が空いた人のための良い製品を作ってほしいです。」
三養ラーメンの発売価格は「クルクリ粥」5ウォンを基にして10ウォンだった。コーヒー35ウォン、タバコ25ウォンの時代、奥井社長が「安すぎる」と言うほどだった。ヂョン・ジュンユンは「肉体労働の日当が100ウォンだが、それさえも毎日仕事がない状況でこの価格は守らなければならない」と信じた。
2人が結んだ11項目の契約書の中で2項は、記者が見た「世界で最も美しい契約文句」だった。「甲(明星)は乙(サムヤン食品)に製造技術を無償で提供する。乙は甲の技術伝授に従う。衛生的価値を守るためだ。」
このようにして誕生した韓国ラーメンは、世界の食べ物の歴史を塗り替えている。今年に入って9月16日までに100か国余りに輸出した韓国ラーメンだけで6億5700万ドル(約9000億ウォン)分だ。前年比23.5%増加だ。
「人間百懷 千歳憂」 人は100歳を生きるが、1000年後を考えなければならないという全重潤(ヂョン・ジュンユン)の経営哲学だ。反目と狂気の時代といわれていた20世紀半ば、飢えとの戦いを繰り広げた2人の企業家を再び追悼する。(朝鮮日報参照)
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