100社以上とコラボする猿田彦珈琲 枠にとらわれない成長戦略の舞台裏

 創業から約3年後の14年4月、日本コカ・コーラ社から猿田彦珈琲監修の「ジョージア ヨーロピアン」シリーズが発売され、恵比寿の小さなコーヒー店の名前が一躍全国へと広がりました。

 きっかけはその2年前、大塚さんが日本コカ・コーラ社から「コーヒーの『サードウェーブ』について話を聞かせてほしい」と依頼されたことでした。

 「僕なりの答えや考えを伝えさせてもらいました。『ハンドドリップで1杯ずつ淹れる日本の喫茶文化をまねしたのがサードウェーブ』という説明が当時は有名でしたが、それはあくまで表面的な内容かもしれず、僕は『コーヒー豆のダイレクトトレードをベースにしたことこそ、サードウェーブ』と話しました」

 大塚さんによると、コーヒーのファーストウェーブはおおまかにいえば1960年代に起きました。米国で真空パック包装の技術が開発されたのを機に、コーヒー豆は大量消費の価格競争時代に入ります。大手企業が原産国の豆を安く買うため、農園は疲弊し品質が落ちるという悪循環が起き、消費者のコーヒー離れが起こったのです。

 スターバックスコーヒーに代表される90年代のセカンドウェーブでは、高品質のコーヒーを求める流れが広まり、原産国への技術支援も広がります。

 さらに、生産地や豆の個性を楽しむスペシャルティーコーヒーを楽しむ流れができたのが00年代のサードウェーブです。適正価格で取引し、生産国の貧困を救済しながらおいしいコーヒーを求める動きが生まれました。

 輸入などに関わる間をとりもつ会社が主導で決めるのではなく、消費者に限りなく近いコーヒー店自体が主体的に選べる仕組みです。産地のコーヒー銘柄をエリア指定し、小さな単位で選ぶことができるという流れは、個人店単位でも注文しやすくなったという点で、自分の欲しい素材が選びやすくなったことを意味しています。

 大塚さんは日本コカ・コーラ社の社員数十人に向けてそうしたコーヒー文化を解説。産地ごとの豆の個性を生かして焙煎したコーヒーもふるまいました。

 「コーヒー豆にはフルーツのような酸味と甘みがあります。深煎りだとカラメルのような風味になり、酸を残した状態で焙煎すればバナナやイチゴのような風味が感じられる。その個性を体験してほしいと思いました」

各産地から届くコーヒーの生豆はすべて「調布焙煎ホール」内で保管されています

 大塚さんの話は好評で、その後は日本コカ・コーラ社のマーケティングやR&D(研究開発)の担当者が、毎週のように猿田彦珈琲を訪れてくれました。

 そして13年夏、大塚さんは突然、日本コカ・コーラの本社に呼ばれ、試作用の缶コーヒーを渡されました。飲んでみると、猿田彦珈琲で提供している「猿田彦フレンチ」に近しい味がしました。担当者からは「味のディレクションをしてほしい」と言われたといいます。

 突然の申し出と高いクオリティーの缶コーヒーに驚いた大塚さん。その日の深夜、東京・恵比寿の1号店の裏にあった公園で、創業メンバー4人による緊急会議を開きました。

 「大手企業とコラボしなくても、僕らは有名になれる」。自分たちのコーヒーに自信を持っていたこともあり、メンバーは全員反対の意向でした。大塚さんも同意見でしたが、頭の片隅では別の想いもありました。

 「僕はコーヒーと出会うまで本当にお金がなくて、賞味期限切れの弁当でしのぐこともありました。コーヒーに生かされた部分があるので、どこかでコーヒーと猿田彦大神に恩返しをしたいと思っていたんです」

 「僕たちは“猿田彦”さんの名前を拝借し、食べさせてもらっている。缶コーヒーを通じて、その名前がさらに広まるといいよね」。大塚さんがそんな話をすると、涙を流したメンバーもいたといいます。

 14年、猿田彦珈琲監修の「ジョージア ヨーロピアン」シリーズが発売され、その名は大きく広がりました。

「ジョージア ヨーロピアン」シリーズ(日本コカ・コーラ社提供)

 缶コーヒーやペットボトルは、猿田彦珈琲で提供しているスペシャルティーコーヒーの1杯500円という価格帯では発売できません。それでも、手に届く価格帯で最大限にいいものを作ろうと、大塚さんたちは口に含んだ時のなめらかさやきめ細かさといったマウスフィール(質感)を重視し、日本コカ・コーラ社と試作を重ねたといいます。

 低価格帯の商品の監修で、高品質なコーヒーを扱う猿田彦珈琲のブランド力が落ちるリスクは考えなかったのでしょうか。

 大塚さんは俳優をしていたときの経験を踏まえ、こう語ります。

 「名優たちはテレビドラマ、映画、CM、それぞれで芝居のやり方見せ方を変えています。テレビの方がわかりすい少し大げさな芝居で、映画だったらもう少し自然に見えるような芝居にするなど、本来難しいことを簡単に変化させるのが当たり前のようにやり抜きます。店のコーヒーとは販売価格が異なる缶コーヒーでも、僕たちならできることはあるはず。そうした発想が根底にありました」

 猿田彦珈琲監修の「ジョージア ヨーロピアン」シリーズは人気を集めてラインアップを増やし、今も店頭に並んでいます。猿田彦珈琲という名前も広まり、これまで進めてきた企業タイアップは累計100社以上にものぼります。23年7月には、東京海洋大学とコラボしたコーヒー「超深海ブレンド」も発表しました。

 なぜ猿田彦珈琲が支持されるのでしょうか。味や豆へのこだわりもさることながら、大塚さんは「“猿田彦”という名前のインパクトではないでしょうか。“大塚珈琲”ではこうはならなかったはずです」と言います。

 12年前、小さな店からスタートした猿田彦珈琲は、19年に三菱商事の出資を受け、今では21店を展開しています。

 「順調そうに見えますが、これまで国内で3店舗を閉じています。10%以上の確率で店をつぶしている計算です。ひとえに僕が勉強不足だったこともありますが、立地や条件が良いから必ずしももうかるわけではありません」

 18年には台湾への進出も果たしましたが、すでに撤退しています。「日本以上に人件費をかけてしまう作戦ミスがありました。そうなるといくらお客様が入っても、利益が出なくなってしまいました」

 コロナ禍の影響も受けました。2020年3月、東京・原宿に店をオープンしましたが、その数日後に緊急事態宣言が発令され、1日の売り上げが120万円から20万円にまで下がったといいます。「内装費などに2億円くらいかけたので、そのときはやばいなと思いました」

 そうした苦境にも、猿田彦珈琲は三菱商事の下支えを受けながら、積極的な出店攻勢で立ち向かっています。路面店だけでなく商業施設や地方まで、店の規模感は様々ですが、出店基準は特に設けていないといいます。

 「基準を設けず、常に新しいチャレンジを続けることで枠にとらわれない店づくりをしたいんです」

猿田彦珈琲の「調布焙煎ホール」はガラス越しに焙煎機を身ながらコーヒーを味わえる店です(同社提供)

 大型の焙煎機がガラス越しに見える「調布焙煎ホール」をはじめ、アイスクリームショップを併設した店や、またパン職人の従業員を採用したことを機にベーカリー併設の店も立ち上げ、コーヒーを軸にして業態を広げています。

猿田彦珈琲のアイスクリームブランド「ティキタカ」。コーヒー、フルーツ、日本酒を使ったアイスがそろっています

 23年7月に開業した「吉祥寺 井の頭公園前店」でもユニークな試みを始めました。週2日は、同社の広報で、松竹芸能所属のお笑い芸人コーヒールンバとしても活動する平岡佐智男さんが運営する「サチオピアコーヒー」として、オリジナルコーヒーなどを展開します。

 大塚さんは「吉祥寺店は小さな路面店ですが、猿田彦珈琲の世界観に目を向けるという、社内や社会への意思表示でもあります」と言います。

吉祥寺店で展開する「サチオピアコーヒー」(同社提供)

 店舗が拡大するにつれて、大塚さんは人材育成の仕方も変えました。

 「以前まで、入社後1年以上経たないスタッフはエスプレッソマシンに触れませんでしたが、数年前からバリスタの大会に出場経験を持つスタッフが指導方法を整えました。今は入社後1~2カ月のトレーニングでマシンを使えるようにしています。みんなコーヒーを淹れたくて入社してきますので、信じて任せるというのが大事と思っています。経営者としては勇気がいることですが」

 同社の看板になった「調布焙煎ホール」も、大塚さんはアイデアなどを出すのみにとどめ、内装など実際の店づくりはスタッフに任せました。

 「すべての業務を自分1人で抱えることはできません。僕はコーヒー豆や焙煎については譲れない部分も多いですが、それ以外は比較的他のスタッフにゆだねることも多いですね。失敗したら修正すればいいんです」

カッピングという作業で焙煎の状態をチェックする大塚さん

 今後の課題は「多店舗展開でもクオリティーをコントロールしていくこと」と大塚さんは言います。猿田彦珈琲を10年後には100店舗にまで増やすことが目標です。

 創業から12年で猿田彦珈琲を急成長に導いた大塚さんの目に、代々続く家業を継ぐ後継ぎ経営者は、どのように映るのでしょうか。

 「創業者より後継ぎ社長の方が絶対難しいですね。家業のストーリーだけでなく、負の連鎖も継がなければならないですから」

大塚さんはチャレンジ精神を重んじた経営を進めています

 「負の連鎖」の乗り越え方として、大塚さんは「ビジネスで何かをやろうとするとき、人から文句が出るのは当たり前。必要以上に人の顔色をうかがっているのなら、それを捨てる訓練をすればいいのではないでしょうか」

 大塚さん自身も人の顔色を伺ってしまうタイプで、やりたいことを自分の中に押し込めて、後から悔やんだ経験が多くあるそうです。

 「情報を察する能力は重要ですが、顔色をうかがうことで自分への規制になり、トライしなくなってしまうんです。何でも挑戦しないと結果にはつながりませんから」

(続きは会員登録で読めます)

ツギノジダイに会員登録をすると、記事全文をお読みいただけます。
おすすめ記事をまとめたメールマガジンも受信できます。


Page 2

水野さちえ

2023.09.01 (最終更新:2023.09.01)

ミツイシ5代目社長の黒木宏二さん

 碁石の製造販売を祖業とし、近年は「日向夏ドレッシング」などの食品事業で知られるミツイシ(宮崎県日向市)。5代目社長の黒木宏二さん(46)は、4代目だった兄の急逝を機に家業に入りました。しかし社員の向く方向がバラバラだった状態に衰退の危機を感じ、それまでなかった理念作りに着手。社内をまとめあげ、兄が遺した日向夏ドレッシングの販路を着実に広げていきました。

 黒木さんが生まれ育った宮崎県日向市は、ハマグリを用いた碁石のまちとして知られます。ミツイシは、ハマグリをくりぬいて磨き上げる碁石の製造販売を1917年に創業。厚みとしま模様の美しさで等級が分かれる碁石は、白黒一式(361粒)数百万円で取引されるものもあるほどです。

ミツイシの碁石。白碁石ははまぐりから、黒碁石は那智黒石から削りだして製造し、職人が手作業で仕上げます(同社提供)

 「私が子どものころ、会社は碁石事業がメインでした。観光ブームの波に乗り、1986年に碁石工場の見学もできるドライブイン『はまぐり碁石の里』をオープン。土産物販売やレストラン業を営むドライブイン事業に参入しました」

観光客でにぎわっていたころの「はまぐり碁石の里」(ミツイシ提供)

 当時の会社経営には、両親のほか父の親族も参画。家族経営をめぐっては、意見の衝突も多かったといいます。黒木さん兄弟は母から、「会社は兄弟でやるもんじゃない。いずれお兄ちゃんが継ぐのだから、宏二は自分の力で生きる道を探しなさい」と言われたといいます。

 「私は環境問題に興味があったので、近畿大学農学部に進学。卒業後は水産専門商社に就職しました」

 水産専門商社の札幌支店に配属された黒木さんが担当したのは、カズノコの原料調達でした。

 「ロシア船籍のニシン加工船に乗り込むなど、1年のうち4カ月近くを海外で過ごす生活を、5年ほど続けました」

 札幌支店での勤務時代に、大学の同級生と結婚した黒木さん。3人目の子どもができたとき、家族を守るために転職を決意しました。

 「私の不在中に、妻がワンオペで育児をするのは限界だと感じました。そこで妻の実家がある大阪へ移住し、バイヤーを探していたくら寿司に転職しました。2011年のことです」

 黒木さんはくら寿司で、皿や箸などの消耗資材のバイヤーとなります。同じころミツイシでは兄が社長に就任し、食品事業の売り上げを伸ばしていました。

 「食にこだわりを持つ兄が、次々に新商品を開発していました。宮崎特産の柑橘で、白い皮ごと食べられる『日向夏』がたっぷり入った日向夏ドレッシングを2011年に発売しました。兄は商談で大阪へ来るたびに、『これ、どうかな』と私に試作品を持ち込んで意見を求めました。私も、兄と食の話をするのが楽しみでした」

 ミツイシに激震が走ったのは2014年2月でした。兄が急逝したのです。

 「訃報が急すぎて信じられませんでした。実家に駆けつけると、家族全員が放心状態でした。私は葬儀を執り行うのが精一杯で、涙が出たかも覚えていません」

 喪主をつとめる義姉の隣で弔問客に挨拶する黒木さん。取引先やメインバンクの人たちは、「突然のことで…」の二言目に「会社はどうなるの?」「弟さん、戻って来られるの?」と黒木さんにたずねたといいます。

 「家業とはニュートラルな関係でいた私は、正直、会社の業績をよく理解していませんでした。でも、残された家族や社員のことを考えると『戻らないという選択肢はない』と感じました」

 黒木さんはくら寿司に事情を説明して退社し、2014年4月にミツイシに専務として入社。社長には、父が再び就くこととなりました。

 黒木さんの入社当時、ミツイシには40人ほどの社員がいて、七つの部門がありました。

 「祖業の『碁石』と『碁盤』に加えて、ドライブイン事業の『レストラン』と『売店』、食品事業の『調味料』と『菓子』、さらに『リサイクル事業』の七つです。囲碁人口や観光客の減少によって経営の厳しさが増すなか、菓子やリサイクルで地元の需要を掘り起こそうとしたり、ドライブイン事業との相乗効果が見込めそうな調味料の開発に注力したりする兄の苦労が感じられました」

食品製造の様子(ミツイシ提供)

 当時のミツイシの売り上げのうち、碁石とドライブイン事業が全体の6割を占めており、食品事業は2割ほどだったといいます。兄は、食品を新たな柱に育てて会社を存続させようとしていましたが、碁石の売り上げ減少分を補うまでには至っていませんでした。

 また財務諸表を確認していくと、ほぼ債務超過の状態が続いていたといいます。資金繰りも逼迫していました。

 キャッシュの確保が急務だと理解した黒木さんは、父に相談し、リサイクル事業を競合に売却してどうにか急場をしのぎます。また、くら寿司で培ったノウハウを生かして、レストランのオペレーション改善を進めました。

 家業に戻った直後の黒木さんは、兄へのリスペクトもあり「私の価値観で会社を大きく変えるべきではない」と考えていました。ところが日々の仕事で各部門と向き合うなかで、モヤモヤが大きくなっていきました。

 「ミツイシには、一貫した指針がないと感じました。仕事で迷った時に立ち返る、よりどころのようなものです。各部門の社員は、職人だったり強い思いを持つ人だったりで、目の前の仕事はできるのですが、全体最適視点に基づいたり次世代を見据えたりしながらの仕事はできていませんでした」

 社長の父は、碁石に対する強い思い入れはあるものの、碁石事業以外は、ベテラン社員たちに任せきりだったといいます。

 「ベテラン社員のなかには『兄が作りたいと言っていた』と主張して、自分が作りたい食品を独善的に手がける人もいました。碁石部門では、十分な販売計画がないままで1回あたり数千万円かかるメキシコ産の原料を調達して碁石を製造し、会社の資金繰りを悪化させていました。どの部門も旧態依然で、社内で怒号が飛ぶことも多々ありました」

ミツイシ5代目社長の黒木宏二さん(同社提供)

 「いいものを作りたい」という思いは黒木さんも同じです。ただしそのプロセスに問題があり、社員が向く方向もバラバラだったため、結果として顧客にとっても、会社の利益にとってもプラスにならないような状態が続いていました。黒木さんは「このままではミツイシが、社員からもお客様からも選ばれない会社になってしまう」と、衰退への危機感を強くしました。

 状況を打開するため、父に「創業100周年を機に代替わりしてはどうか」と持ち掛け、2017年に、社長に就任しました。

 ミツイシは何のための会社なのか、どういう会社でありたいのか。黒木さんは考え抜き、18年に、ミツイシの「経営理念」と「行動指針」を策定しました。策定にあたっては、宮崎県中小企業家同友会からのアドバイスなどを参考にしました。

 ミツイシの経営理念と行動指針には、地元日向に対する敬意と、人間尊重の思いが込められています。

黒木さんが新たに掲げた、ミツイシの「経営理念」と「行動指針」

<経営理念>

  1. 私たちは、《日向》の財(たから)を掘り起こし磨いて、輝きを世界へ届けます。
  2. 私たちは、誠意あるモノづくりやサービスで、感動と信頼の輪をつなぎます。
  3. 私たちは、持続可能な地域づくりに貢献し、より豊かな暮らしを実現します。

<行動指針>

  1. 私たちは、お客様の声に耳を傾け真心こめて対応します。
  2. 私たちは、ともにはたらく仲間をうやまい助けあいます。
  3. 私たちは、学び励ましあい、クオリティを高めあいます。

 「まず役員会議で発表して、全体朝礼で社員に向けて話しました。社員の反応は『ああ、そうですか』という感じで、私はごく自然なリアクションだと受け止めました」

 黒木さんは、理念の浸透には時間がかかると考えていました。まずは言葉を身近に感じてもらうため、日々の朝礼での理念と行動指針の唱和と、理念の大切さが伝わるようなお客さんとのエピソードを紹介することから始めました。

 さらに、社員が会社全体の状況やビジョンを理解した上で日々の仕事に取り組んでもらうために、2018年から年1回の経営指針発表会を始めました。

 「ミツイシ全体と、各部門の強み・弱みを分析したうえで、経営指針を発表します。社員の採用面接では、私が初めに経営理念をじっくり説明し、共感してくれた人を採用しています」

 理念の発表から数年がたち、社員の口から徐々に「理念が…」という言葉が出てくるようになりました。

 「ある社員が、急に仕事を休みがちになりました。理由を聞くと、『子どもが病気で、看病や通院に付き添っている』とのことでした。急な休みが増えると、その人の仕事を誰かがカバーしなければならず、以前のミツイシでは不満の声が上がっていました。それが、『仲間が仕事を続けられるにはどうすればいいか』『理念のとおり、助け合うにはどうすればいいか』と社員が自発的に考えて行動するようになったのです。嬉しかったですね。いまもその社員は仕事を続けています」

 黒木さんは製造部門を多能工化することで、家庭の事情などで有休を取りやすい環境を整備していきました。理念の浸透による組織の変化で、食品事業は会社の新たな柱として着実に成長していきました。

 そんなミツイシを、コロナ禍が襲います。黒木さんは苦渋の決断を迫られました。

 2020年3月末、ミツイシは30年あまり続いたドライブイン事業の店舗「はまぐり碁石の里」を閉店しました。

 「2020年2月にコロナ禍が大きく報じられ、団体予約が全てキャンセルされました」

 この頃は、コロナ禍の収束時期や事業影響が予測できなかった時期です。黒木さんが早期の決断に踏み切った背景には、2010年に宮崎で発生した口蹄疫(こうていえき)の教訓がありました。

 「観光業界の先輩に当時の話を聞くと、『口蹄疫は3カ月で収束したが、その後の風評被害もあり、回復するのに2年を要した』とのことでした。コロナ禍でのミツイシには、ドライブイン事業の売り上げがないままで2年耐える体力がありませんでした。そこで、ドライブイン事業から撤退して碁石と食品の二つに事業を集約し、経営再建を進める計画を中小企業診断士の力を借りながら立案しました。それをメインバンクや顧問会計士に相談して承認を得たうえで、役員たちに打ち明けました」

 事業の集約にあたり、ドライブイン事業の社員を中心に10人を解雇しました。会社都合で解雇をするのは、黒木さんにとって苦渋の決断でした。

ドライブイン事業から撤退した、ミツイシの現在の社屋

 「社内外から非難されることはありませんでしたが、退職金を払って済む問題だとは思っていません。経営者として、一生背負っていかねばならない責任だと肝に銘じています」

 様々な困難に直面する中で、食品事業の売り上げを支えたのが、兄が開発し看板商品となった「日向夏ドレッシング」でした。ミツイシの年商は3億円ほど。事業の集約もあって、黒木さんの入社時に売り上げの約2割だった食品事業は、現在8割ほどを占めています。

 「兄が遺してくれた『日向夏ドレッシング』の販路を、全国のスーパーやセレクトショップに広げたのが大きいですね。食のプロからも評価され、日本野菜ソムリエ協会が主催する『2023年ドレッシング選手権』で金賞を受賞しました」

兄が開発し、黒木さんが販路を拡大した日向夏ドレッシング

 日向夏ドレッシングは、日向夏の果皮や果汁を均等に充填するために、製造工程の多くが手作業で進められます。

 「手間がかかるので、他社はまずやりたがりません。レシピは兄の時代から変わっていませんが、『具材がたっぷり入りすぎていて、ビンの底にたまってしまう』というお客様の声を受け、広口のペットボトルタイプを発売しました」

 祖業である碁石事業は、熟練の加工技術を持つ職人4人をはじめ、選別作業や営業担当の計7人。国内の需要が減る一方で近年は海外からの引き合いが増え、売り上げの7割を海外向けが占めています。

ミツイシの碁石を手にする海外顧客(同社提供)

 「欧米や中国向けを中心に、自社のECサイトを通じて数十カ国に販売しています。先日は中国から来日するというお客様から、『ホテルに届けてほしい』と100万円を超える碁石セットの注文がありました」

 一方で囲碁人口の減少が続く国内向けは、「コラボ」と「新価値の提案」がカギだといいます。

 「コラボの方向性は2種類あり、ひとつは日本の伝統産業とのコラボです。もうひとつは、アパレルや教育機関といった異業種とのコラボですね」

 京都の金箔押し職人とコラボして金箔・プラチナ箔で仕上げた「絢爛碁石『煌』」や、宮崎大学とのコラボによるはまぐり製のSDGsバッジなどを手掛けていきました。

京都の金箔押し職人とのコラボによる「絢爛碁石『煌』(きらめき)」(ミツイシ提供) 宮崎大学との産学連携で生まれた「SDGsバッジ」(ミツイシ提供)

 新価値の提案では、父の日などのイベントに合わせた営業施策や、囲碁セットのレンタルサービス、選別で弾かれた規格外品をアップサイクルした『ミニサイズ』などの商品を展開しています。

 ただ、黒木さんが目指す碁石事業の姿は、父の方針と大きく異なるものでした。

 「地元の碁石業界のリーダー的存在だった父は、私が進める施策にことごとく反対しました。新商品に対しては『そんなものを作っても儲からないからやめろ』、材料費や人件費の高騰で値上げを決めると『碁石が売れなくなって会社がつぶれるぞ』と。私がいくら『誠意あるものづくりや、将来につながるサービスを大切にしたい』と話しても、意見がかみ合うことはありませんでした」

 黒木さんが2017年に社長に就いてからほどなく、会長職にあった父は「自分の思い通りにならないなら、会社を出る」と言ってミツイシを離れました。現在は日向市で同業の会社を営んでいます。

ミツイシの社屋

 「仕事で袂を分かつことになり、悲しかったです。でも私は、守るべきものはミツイシで働く社員であり地元日向の宝であると、経営理念を作った時点で覚悟を決めていました。父と仕事の話をすることはなくなりましたが、家族としては普通に話をしたり、食事をしたりしています。私を育ててくれた大切な父親であることに、変わりはありませんから」

 2023年9月現在、ミツイシの社員は28人。理念と行動指針に基づく真摯な仕事が、ミツイシの成長につながると黒木さんは話します。

碁石を削りだす様子(ミツイシ提供)

 「理念だけでもだめだし、儲け一辺倒でもだめだと肝に銘じています。祖業の碁石を守りながら食品事業を強化していくことで、地元日向の魅力を広く届けていきます。ミツイシという存在によって、『地方でもこれだけやれるんだ』『日向で働き、暮らしたい』と思ってくれる人を一人でも増やしていきたいですね」


Page 3

國松珠実

2023.09.04 (最終更新:2023.09.04)

キムラ3代目の木村祥和さん。手に持っているのはひんやりした触感のクッション。ペット用羽毛布団から派生したコラボ商品です

 京都府八幡市のキムラは50年以上、羽毛布団の製造・販売を続けてきました。2代目の木村祥和さん(48)は、すし職人を経て30歳を過ぎて家業に入社。下請け依存を脱するため、羽毛布団のレンタルを始め、ペット用羽毛布団の開発・販売にも手を広げます。体形などにカスタマイズした商品が好評を博し、2020年にネットニュースで取り上げられたのを機に注文が激増。今ではペット用の雑貨や食品などのコラボ商品にも乗り出しています。

 キムラは1970年に創業し、業務用羽毛布団の製造を始めました。現在は「キムラ京都布団」などのブランドを持ち、羽毛布団の製造と縫製、羽毛布団のレンタル、そしてペット用羽毛布団の製造・販売という四つの業務を行っています。従業員数は5人です。

 木村さんの父が1960年代半ばに立ち上げたキムラ縫製という縫製会社が前身で、やがてパートナー会社からホテルや旅館向けの羽毛布団の製造を依頼されます。

 当時はまだ一般家庭に羽毛布団が普及しておらず、旅行時の特別感を演出するアイテムでした。そこで羽毛の仕入れや布団の縫製まで一貫して行う設備を工場に整え、「株式会社キムラ」と社名も改めました。

建物2階の工場。ミシンで縫製された業務用羽毛布団やペット用羽毛布団が生み出されています

 木村さんは小学校時代、帰宅してランドセルを置いた途端、父から「おい、手伝え」と声がかかるのが常で、荷物運びや布団生地の寸法を測る手伝いをしていました。

 「大きな生地なので、長い定規で寸法を測り、線を引く作業は2人がかり。でも従業員はみんな忙しいので、軽作業は私の担当でした」

 20代のころは、すし職人として8年間働いていました。料理人の親戚や料亭を経営する親戚が多く、幼いころから高級仕出し弁当を口にしたり、目の前ですしを握ってもらったりしたため、志したのです。

 しかし、木村さんが31歳のころ、父から「家業が忙し過ぎる。帰ってきてくれないか」と言われました。

 「すし店の大将には感謝していたし、2号店の店長を打診された時期でもありました。でも、子どものころから何不自由なく育ててくれた父のことも尊敬していました。自分の原点を考えた時、戻るべきと決めたんです」

 すし店の大将にも背中を押され、2005年、家業に入りました。

 木村さんは家業で布団の製造や配達を任され、すぐに経営課題を認識しました。猫の手も借りたいほどの忙しさなのに、業績は「多少利益が出る程度」だったのです。

 「業務用羽毛布団の下請け製造で、値段は言い値。一緒に働いていた親戚からは『なんでこんな値段でこれだけの仕事をやらなあかんねん』と不満が出ていました。でも父や古参の従業員は目の前の仕事で精いっぱい。不満に十分対処できませんでした」

従業員と和気あいあいとした雰囲気で仕事をしています

 木村さんが入社して1年たったある日、父にレンタル布団への参入を相談します。以前、遠方の友人宅に大勢で泊まりがけで遊びに行った時、人数分の布団をレンタルしてくれていました。ただ、それは薄い布団だったため「うちなら、工場で作った羽毛布団をレンタルできる」とアイデアを温めていました。父も「面白そうだからやってみろ」と背中を押してくれました。

 レンタル布団は人口が多い地域ほどニーズが高くなります。観光地で大学も多く、季節や学校行事に合わせて需要が増える京都はうってつけでした。「客用の布団を入れる押し入れがない家も多く、レンタル布団の需要はありました」

 「せっかく借りるのだから良いものを」という心理も働くため、羽毛布団は重宝されたといいます。

 当初は自社のトラックで近隣を開拓し、やがて京都市にも進出。注文は月に5~10件程度でしたが、現在は東京や北海道、沖縄まで顧客を広げています。特に注文の多い年末には、40~60件程度の注文を受けているそうです。

 それから1年後、木村さんはペット用羽毛布団の製造・販売に乗り出します。

 アイデアの元は、キムラの布団を愛用する顧客からの相談でした。

 「自宅で飼っているゴールデンレトリバーが、夜になると羽毛のかけ布団を自分の寝床に持っていってしまう。このままだと自分が風邪を引くから、愛犬の羽毛布団を作ってくれないか」

 当時も今も自宅でシバイヌを飼っている木村さんにも、その発想は全くありませんでした。犬用の布団製造は未経験でしたが、人間用の半分の大きさで作り、納品しました。

 「ワンちゃんが羽毛布団の上でクルクル回ってコテンと寝てしまう。その様子を見た飼い主さんが、これまで見たことのないくらい良い表情をするんです」

 大きさや種類によって変わりますが、現在、ペット用羽毛布団はリーズナブルなもので1万円ほど。高いものだと4万円ほどになります。

ペット用羽毛布団の上に座る犬。「バフッ」という気持ちいい感触を大切にしているそうです(キムラ提供)

 以来、木村さんは口コミで依頼があればペット用羽毛布団を製作。当時はすべて、犬の体形や飼い主の要望に合わせたオーダーメイドでした。しかし、周囲の反応は冷ややかだったといいます。

 「父もあまりピンときていないようで、従業員からも『自分たちは何を作っているのか?』と言われました。同業者にも『誰が買うの?』と小馬鹿にしてくる人はいましたね」

 しかし、飼い主の喜ぶ顔を見ている木村さんは製造を継続します。ニッチな商品でも必要とする人がいたからです。

猫も使える寝袋のような2wayタイプ(キムラ提供)

 布団だけでなく寝袋タイプを作ったり、土台を作る際は羽毛の量で硬さを調整したり。木村さんはペットショップやドッグトレーナーのアドバイスを受けながら試行錯誤しました。自社で羽毛布団を作る工場を持っていたことも事業の推進力になりました。

 「レンタル布団もペット用羽毛布団も自社で製造できるからこそ自由にやれます。特にペット用羽毛布団は、自社でこれだけ研究し、天然素材で作っている会社は限られており、その価値が愛犬家に認知されたと思っています」

 海外から取り寄せる羽毛は、木村さんが最も信頼できるルートを使い、国内工場で丁寧に洗浄されたものを使います。そして生地は可能な限りコットン100%を使用。オーガニックコットンで作った商品もあります。

 「ペットが羽毛布団でこまめに寝られるようになったので、家の中でイタズラすることが少なくなった」、「他のペット用布団だとすぐにかんで振り回すのに羽毛布団だとそれがない」。そんな声が多く寄せられたことも励みになりました。

 「『かまない』というのは、恐らく当社の羽毛布団にポリエステル繊維を使っていないからと考えています。ワンちゃんの市販の玩具は、多くがポリエステルを使っており、そのにおいがするモノは全て玩具だと思っている。だからポリエステル繊維のペット布団を、玩具を思って思い切りかんで振り回すのでしょう」

「ハッピーシェアベッド」という種類のペット用羽毛布団でくつろぐ犬(キムラ提供)

 11年、社長の父が病で亡くなり、木村さんが経営を引き継ぎました。地道にペット用羽毛布団を作り始めて10年以上経った2020年秋、大きな節目を迎えます。知人がメディアに紹介してくれたのをきっかけに、インターネットのニュースサイトでペット用羽毛布団が取り上げられ、話題になりました。

 たった2日間で1年分の注文が舞い込み、その年は自社で受けた注文と代理店を通じた販売分を合わせて計500点ほどを製造しました。「1年ほどずっと忙しかったですが、コロナ禍を乗り切れたのは大きかったです」

ペット用羽毛布団の中で眠る犬(キムラ提供)

 コロナ禍はキムラの納入先だったホテルや旅館などを直撃し、業務用布団の受注はゼロになり、現在も受注は回復していません。昨今の物価高騰で布団の価格も上がり、決して楽観できません。

 それでも、今は木村さんが発案したレンタル布団とペット用羽毛布団が売り上げの30~40%を占め、安定して家業を支えています。

 創業50周年となった20年、木村さんはペット商品ブランド「KIMURA Kyoto Pedding」を立ち上げました。布団だけでなく、ペット用の雑貨や衣類、フードも扱っています。

 ペット用羽毛布団の認知が広まったことで、犬好きのビジネス仲間とのコラボレーション企画や商品に携わる機会が飛躍的に増えました。

 ある生地メーカーの代表からは冷たい感触の糸を提供してもらい、夏でも快適にペット用羽毛布団を使ってもらえるクッションカバーを作りました。家具職人ともコラボし、廃材を使った犬・ネコ用のハンモックも製作中です。

冷たい糸を使ったクッションカバー(キムラ提供)

 ペット用のビジネスは食品にも及んでいます。異業種交流会で知り合った、犬好きのフレンチシェフとコラボし、犬用のおせち料理の開発に奔走したり、お魚ジャーキーを作る九州の漁港とフリーズドライの食品開発にも挑戦したりしています。これはペットも人も食べられる商品にするそうです。

 「ペットがいつまでも元気で快適に過ごすには、飼い主さんも健康でなければいけません。『この子が生きているうちは元気でいなければ』と切実に考える飼い主さんは多いんです」

 最近はヴィーガンの飼い主とそのペットに向けたお菓子作りの企画も考え、ペットの内臓に負担のかからない食品開発に取り組んでいます。

 「おかげで最近では『ペットの人』と勝手にブランディングされています」

 ペット用羽毛布団は当初、3アイテムからスタートしましたが、現在はオーダーメイドのほかに30アイテムをそろえ、年間売上額は20倍に成長しました。

 サービス開始当初は年間20組程度だったレンタル布団も、今は60組ほどに伸びました。

最近はペットに関する様々な困りごと相談も寄せられています。「それだけイメージが定着したということで、ありがたいです」

 木村さんはペットと人とが健康で過ごすには、睡眠が一番だと考えています。そのため、父が作った羽毛布団ブランド「キムラ京都布団」と、木村さんが立ち上げたペット用羽毛布団ブランド「KIMURA Kyoto Pedding」の両輪を軸に動いていきたいと考えています。

 「二つのブランドでペットと飼い主の健康な生活を支えることが、自分の使命と考えています」

 木村さんは入社してすぐに家業への危機感を覚えたことで、レンタル布団やペット用羽毛布団を思い付き、軌道に乗せました。

「ペット用羽毛布団」は無から生み出した商品でした(キムラ提供)

 同じような立場の後継ぎ候補に向けては、「危機感を持ったら動いてほしい」と強調します。

 「キムラにはたまたま自社工場や機械という財産がありました。そうした資産も含め、自分が置かれた状況下で、どんな困りごとが解決できるのかを考えることが大事だと思います。今は、自分1人では難しいこともコラボレーションすればできる時代です。色々な業種と組んでみたら面白いでしょう」

 様々な業界からコラボレーションの話が舞い込んでいるのも、「ペット用羽毛布団」という大きな軸があるから。当初は木村さん自身、羽毛布団という枠を超えた展開を予想していませんでしたが、これまで異業種の様々な経営者から声がかかることで、ペットと人間の健康をテーマにした新しい商品の可能性を感じています。

 「何もないところからペット用羽毛布団を生み出した経験は大きかったです。お客様の要望を聞いて知恵を振り絞る。まさにゼロからイチを生み出す力は、これからの時代に最も強いと思っています」

タイトルとURLをコピーしました